「ぎりぎりまで」2006年3/16のメッセージ

名残り雪で、咲き出した日向水木も、ぶるぶる。
長澤先生、コメント(『免許更新』に)ありがとうございます。
「ぎりぎりで人の真価が問われる」
ということで、メッセージの間に感じたことを書き添えてみたいと思います。
「人の真価が問われる時」
以前、朝の礼拝で創世記44章からメッセージされた時には、
「自分の身近な者が過ちを犯した時」
と言われました。
末の弟のベニヤミンが、盗みを働いて恩をあだで返すような罪を犯した…と思った時、兄弟たちは
「こいつ1人が犯したことで、私たちは知りません。
関係ありません。」
とは言わず、
「私たちも、(皆が)あなたの奴隷になります。」
とヨセフに申し出ました。
さらに、かつては弟ヨセフを隊商に売り飛ばしたユダは、
「私を代わりに罰して下さい、しかし弟は父のもとへ帰らせて下さい。」
と許しを乞いました。
自分自身ではなく、自分の身近な者の過ちを、どう対処するか。
会社の不祥事を、責任者はどう対処するか。
子供が罪を犯した時、どう対処するか。
黙って見過ごす、人(妻)まかせにする、秘書(自分以外の家族)のせいにする、事実を隠そうと躍起になる、…。
潔いのは、たとえ自分は何も悪いことはしていなくても、自分の会社・自分の愛する者が犯した罪は自分も共に背負う覚悟で一緒になって頭を下げ、謝罪するという方法でしょう。
小さな子供が悪いことをした時に、親が一緒に謝りに行って、子供の代わりに償いをするのは、子供のことを愛しているからです。
イエス様も、罪を犯していないのに、私たちの身代わりに罰を受けて下さいました。
私たちのことを愛しているからです。
「人の真価が問われる時」
2つ目には、
「困難な状況に陥った人を目の当たりにした時」
たいして違いはなさそうですが、「良きサマリヤ人」の例(ルカの福音書10章30〜37節)が分かりやすいと思います。
病気になった、災難に遭った、その他もろもろ、大変な状況にあり助けを求めている人を見ての対応。
律法学者やパリサイ人のように、目をそらし、遠回りして通り過ぎて行くでしょうか。
自分では力不足だからという諦めだとか、
自分の親戚ではないからというエゴとか、
あまり関わりたくない類いの人間だからという差別意識だとか、
面倒なことに巻き込まれたくないという恐れだとか。
「本当に神様を信じる人」というのは、
ナチスの迫害のもとでもユダヤ人をかくまったり、
黒人差別の社会の中にあっても蔑んだりせず、対等の人格として尊重したりするものだと思います。
戦争中だからとか、
人道的行為が現制下では反社会的だからとか、
そんな「ぎりぎり」の状況の中にあっても愛を貫く人。
窮地に陥ってる人のそばを“通り過ぎて行く人”ではなく、
例話に登場する良きサマリヤ人のようにそばに駆け寄り、
助けるというのが真実な人ではないでしょうか。
さて最後に、長澤先生のメッセージから。
「ぎりぎりの状況で、人の真価が問われる」
愛する者に裏切られ、怒りと憎悪で理性を失いそうになる
境界線ぎりぎり。
精神的な苦痛を受け続けて、心のバランスが崩壊しそうになるぎりぎり。
忍耐して忍耐して、それでも堪忍袋の緒が切れそうになるぎりぎり。
そんなふうに自分のキャパシティー(能力・受容力)ぎりぎりであっても、なおも赦し、信じようとするのが本当の愛だと思いました。
どうしようもない子供を、
ゆるせる限界を超えてもなおも忍耐し、
ぎりぎりまで立ち直る希望を捨てないで愛し続ける親の愛のように。
イエス様も、自分を裏切ろうとしているユダをぎりぎりまで(裏切る直前まで)悔い改めることを信じ、ぎりぎりまで愛されたことを知りました。
私たちは心がせまく力のない小さな者ですが、ぎりぎりの状況に追い込まれた時、神様から自分のキャパシティーを超える愛をいただけるのだと希望をいただきました。




